※このコラムは冊子「山山アートセンターをつくる2019 Yama Yama Art Center in Progress」のために2020年3月に書き下ろされたものです。(冊子PDF版はこちら)
結婚式の当日に、新郎を交通事故で亡くした女性がいる。彼女は深く傷つき、精神科に通い、医師に尋ねる。「教えてください。なぜあの人は亡くなってしまったのですか?」 精神科医は答えられない。たとえ事実だとしても「それはスピードを出しすぎたからです」と答えることに、なんの意味もないからだ。僕らは事実だけでは生きていけない。そこに意味や理由や物語を立ち上げなければ、生きていけない。昔、どこかで読んだ話だ。
「山山アートセンター」の合宿ツアーが中止になった。これを書いている2020年3月。小中学校は休みになり、店や街からは人が消えた。いま、いったい何が起こっているんだろう? なぜこんなことが起こっているんだろう? もちろん世界は「新種のウイルスによる脅威」という、科学的に正しい事実を採用し、手洗いやマスク着用に精を出すことが奨励されている。
でも僕は、なんだか釈然としない。そもそも目にも見えず、手触りさえないものなのだ。納得しろという方がおかしい。大昔の人なら「呪い」や「祟り」と思ったかもしれない。さすがに、いまそんなことを言い出す人がいたら、現代人は笑うはずだ。なぜなら僕らはウイルスという「正しい」概念を持っているから。「バカだな、あれはウイルスと言うんだよ」「ウイルス……そうかウイルスと言うのか」「そうだよ。ウイルスだよ」「そうか……で、一体なんだそれは?」
僕らはテレビ画面によく映る、顕微鏡で拡大されたあれを「コロナウイルス」と呼んで、納得している。だが、名付けたからといって、正体を理解できるわけではない。あれはなんなんだろう? なぜそんなものが生まれ、ここまで世界を混乱させているのだろう?
「一体お前はさっきから何をうだうだ語っているんだ? 新型ウイルスが蔓延しているんだろう。それ以上でも以下でもない」と頭の良い人は言うかもしれない。その通りこれは、ただの感染症で、また日常を取り戻すまで静観するという、シンプルな物語なのだろうか。僕にはそう思えない。
さらに言えば、トイレットペーパーが街から消えたのは、ウイルスのせいではない。人々が奪い合うマスクは、ウイルスの予防にならない。音楽ライブは中止され、小学生の日常は剥奪されたが、会社員は今日も満員電車に押し込められ、狡猾な政治家は騒ぎに便乗して特措法をこしらえた。そしてオリンピックの延期が決まったと同時に、東京で感染者が激増していることが発表された。本当のところ、いま何が起こっているんだろう?
ここで話はまた、急に飛ぶ。僕の本職はクリエイティブディレクターで、企業からフィーをもらい、デザインの仕事に多く関わっている。「山山アートセンター」が冠した「アート」は近いようで、とても遠い世界だ。ときおり二つの違いを考えるのだが、デザインは「問題を解決するもの」と捉えており、アートは「問題そのものを世界に提示するもの」ではないか、と最近思うようになった。どちらが優れているということはないが、問いは、答えより価値があるときがある。いま何が起きているのか真摯に見つめ、当たり前の事実に疑問を投げかけることも、アートの役割である気がしている。
だからというわけでもないが、この文章は何ら具体的な解決の方向性も示さない(僕に示せるわけがない)。ただ誰も気に留めないことをつらつらと書いて終わる。答えのない疑問を投げかけることから、新たな可能性(物語や意味と言ってもいい)が立ち上がると思うからだ。大切な人を失った理由を「スピード超過の交通事故」と言われて納得できないように、僕らは、事実だけでは生きていけないのだ。