(2021年6月更新)
「山山アートセンター」が始まったきっかけは・・・と話し出せば、2011年の東日本大震災その他若い頃のたくさんの出来事にさかのぼっていくわけだけれど、いちばんのきっかけは、それまでアートを頼りに生きてきた私の生活が、引越しや結婚や出産をきっかけに一変したこと。アートなんて誰からも必要とされていない地域コミュニティの中で私はいったいどうやって生きていけばいいかと考えたときに生まれたのが「山山アートセンター」だった。
「アートセンター」といってもそのような建物があるわけではなかった。一介の子育て主婦にすぎない私にそれをつくる力はなかった。「このあたりのしんぶん」や「やまやま休憩室」「山山よもやまトークシリーズ」などの企画を足がかりに、既存の公民館や飲食店などを間借りしながら、少しずつ人と出会っていった。そのうちに2人目の子どもが生まれると、乳飲み子を背負ってどこまででも行った。常に人と出会っては話をし、そうすることでなんとか社会とつながっていた。その、なんだかわからない強烈に切実な感じと、どう考えても営利活動ではなさそうな雰囲気とで、断るに断りきれなかったのかもしれないたくさんの人たちが、たくさんの時間や作業を共有してくれた。そんな中で、「自分にとっての“アート”は、地域の人たちに伝わる言葉に置き換えると“福祉”なのではないか?」と仮説をたてた。そこから、この仮説をしらべるための長い長い旅を続けている。
旅の途中で世界はコロナで一変し、我が家の子どもは3人に増えて今に至る。
初めは友達も話し相手もいなくてほんとうに孤独だった私が、いろいろな人たちに生かされてきた。その人たちと一緒に生きていくための、次の一手を考え考え考え続けている。そして、その一手の・・・具体的な落としどころが、難しい。「アートセンター=福祉施設」をつくりたいと声に出して言ってみたこともある。ただ、基礎知識を身につけていくにつれて、この言いかたには誤解や反感が大きそうだと気づいた。国は「地域包括ケアシステム」を整備しようとしている。「誰もが住み慣れた地域で最期まで自分らしく暮らせるためのしくみ」。賛否両論あるものの、国のトレンドは施設をつくらない方向にシフトしているようだ。施設でなくしくみを作ること。そうか、でも、「山山アートセンター」の考える「施設」はそもそも建物のことじゃないんだ。だから、この話にはやっぱり関係が、ありそうなのだ。
見渡す限りの山全体を「アートセンター」と見立てること。「アート」という視点の持ちかたに強みがあるとすれば、大風呂敷を広げることでしか成立しない、という部分だ。何はなくとも山々がある。それにずいぶん救われた。バックには山がついてる。
世の中には実にさまざまな人間が生きている。一心不乱にバリバリ働いているのも人間で、そこにいるのは男も女も皆人間。外で働く者の帰りを家で待つのも人間で、そこにいるのは嫁やら姑やら子どもやら皆人間。障害者と呼ばれているのも人間なら、その診断を下すのも支援するのも人間。管理職も人間だし下っ端も人間、行政も民間も警察も泥棒も人間。生まれたての赤ちゃんも人間だし思春期の若者も人間、もうすぐ息をひきとる老人も最後の瞬間まで人間だ。
どいつもこいつも人間で、人間にはそれぞれに心がある。
「とにかく生きよう」。ある時からこれが合言葉になってきた。
「とにかく生きよう」。そんな切実な言葉に誰が批判や反論をできるだろう?アートだろうがなかろうが、福祉だろうがなかろうが、「●●とは」「▲▲であるべき」にがんじがらめになって人間の心が死んでしまうならそれは本末転倒なのだ。
まずは生きること。生きよう。
つづく。