※このコラムは冊子「山山アートセンターをつくる2019 Yama Yama Art Center in Progress」のために2020年3月に書き下ろされたものです。(冊子PDF版はこちら)
初めて山山アートセンターの存在を知ったのは2016年ごろに知人が持ってきた新聞記事の切り抜きがきっかけだった。京都のどこかの山の中で何かをやっている、という漠然とした印象で、そのおとぎ話みたいな肌触りが、東京で仕事に追われる頭の片隅にもぽつねんと残り続けていた。
それからひょんなことで、イシワタマリさんと出会ったのは2018年の3月。5月には山山アートセンターを訪れることになり、2019年2月には京都芸術センターで私がキュレーションした「逡巡のための風景」に参加してもらうことになった。
「逡巡のための風景」という展覧会タイトルを思いついたのは、初めて山山アートセンターを訪れた時だった。訪れたと行っても、実際にはそういう名前の場所があるわけではない。「山山が見えるところがアートセンター」というコンセプトに則れば確かに山山アートセンターだったと言えるわけだが、この時はイシワタさんと金光寺から山々の景色を眺めていたのだった。
目の前にはただただ広がる山山が連なっていた。向こうの山からこちらを見れば、きっと同じようにただただ広がる山山の連なりだと思うのだろう。遠くに見る山という存在、その輪郭を形作る木々のディテール、そこで暮らす様々な動植物。自分がいる山とあちらの山とでは、その距離感によって随分と肌触りが変わってくる。それはアートセンターなんて言葉に比べればとてつもないスケールを持っているようにも思う。
今、この原稿を書いている2020年3月、世界中で新型コロナウィルスの感染拡大対策として人々は他者との接触を避けなくてはいけなくなっている。多くの美術館は休館となり、音楽イベントや演劇公演も中止となった。人々の安全を優先することはもちろんだが、他者との身体的な距離感は心理的には大きな負担となるのではないだろうか。感染拡大という状況は私たち人間にとっては大きな被害であるが、ウィルスにとってみればまた違った世界がある。ウィルスもある種の他者であるとすると、現在の状況は「共生の想像力」が試されているような気がしてならない。そしてその想像力は、近年如実に失われていったように思うのだ。
家族、地域、国家。様々に規定される人々の集まりは、一人一人の「私」から成り立っている。そしてその大小様々な集まり同士の摩擦の中で疲弊したり、はじき出されたりする「私」がたくさんいる。そして集まりから「孤立」してしまった「私」は「個人」の名の下に「自立」することを強いられている。その「私」が本当は自分自身だったかもしれないのに。
きっとアートには共生の想像力を育む技術があるのではないかと思う。アーティストが社会を捉える視点、作品を作るための素材の選択や造形の技術、その作品に関わったり鑑賞することを通して見えてくるもの。それは合理的に行われる予想とも違う、まだ見ぬものへの想像力である。しかし、それは美術館やギャラリー、アートセンターと呼ばれる場所だけにあるわけじゃない。きっともっと些細な日常生活の中からだって変革は起こっているはずだ。毎日着る洋服だって、夕飯の支度だって、お風呂の入り方だって、アートという技術が使える瞬間は「私」達次第で拡がっていく。
山山アートセンターを象徴する言葉に「とにかく生きよう」という一言がある。イシワタさんが考える「このあたり」には、とにかく生きようとする「私」達が溢れている。とにかく生きようとする不器用なイシワタさんは、これまでの、もしくはこれから出会う「私」の姿なのかもしれない。だから、ここに集まる「私」達を大切することができなければ、私自身が生きる場所がなくなってしまう気がしているのだ。
また不器用なイシワタさんからメッセージが届くのだろう。
今日もどこかの山の中でとにかく生きようとしている「私」がいるらしい。
東京はビルばかりだけど、ここからでは見えない遠くの山山の景色を思い浮かべて生きていく。
そうだ、とにかく生きよう。