親愛なるウタコへ。
こんな本を見つけたよ(『みんなの「わがまま」入門』富永京子著/左右社)。まだ読んでないのにあれだけど、読んでみてほしいやつ。そもそも「わがまま」ってなんなんやろな。わがままでいいに決まってるよね、人間だもの。
ウタコから来た原稿がなんともいえず珍しい。
ウタコのいいところは極度のフェミニストでも菜食主義でもアートオタクでもスピリチュアルオタクでも子煩悩でもなく、どんな思想にも埋没することなくどんな世界観も肯定できるおおらかさ。貴女のニュートラルさとポジティブさに何度助けられたことか・・・。そんなウタコが珍しく「女が生きやすい世の中になってくれ」だなんて言ってるじゃん。
いや、言っていい。日々の雑感としてそう言いたくなる気持ちはよくわかる(私も夫への愚痴レベルではしょっちゅう言ってる)。だけど、うーーーそれを言うなら・・・と私の雑感を伝えたくなってしまっよ。この「わがまま?」を、「お互いもっとわがままで行こうぜ」ととるか、山山パワハラ(山山というニッチな業界においてのみパワーを持つ代表者イシワタによる)ととるか!そこらへんの塩梅って難しい。
私が言いたくなったことは、あたりまえのことなんだけど「男か女かという問題ではない」ということ。女も生きにくいけど男も生きにくい。あと、男も悪いけど女も悪い。あと、男同士のマウンティングもえげつないけど女同士のマウンティングもえげつない。あと、だからといって「 LGBTQ」とか「第3の性」とかって新しいカテゴリーを作ってみても、結局そのしがらみに絡め取られてまたやりにくくなってくるんじゃないのかと。友人のタカハシ’タカカーン’セイジが最近言ってた「僕は〝第4の性=ただの人間〟だから」ってのが、そこそこ的を得ているような気がする。いろんな立場の「ただの人間たち」がただただ生きやすい世の中になったらいいですね。
ご存知のように、山山アートセンターは、言ってしまえば私の「産後うつ」から始まっています。
6年前に長女を産んで、ふと気づくと暮らしの身の回りに「子連れママ」しかいなくて、「子連れママ向けの場所」以外に行き場もなくて、そこは私の居場所ではなかった。だってママである前に人間じゃん!人間はひとりひとりそれぞれ違う生きもので、それぞれ違う人生のタイミングでたまたま誰かの母親になっただけじゃん!と叫びたかったけど、そんなのただのへりくつや「わがまま」にしか聞こえないほどに閉じられた世界。初めから言語化できたわけではないけれど、私は「ただただいろんな人間がごちゃっと好き勝手なこと言ったりやったりしてるカオス状態」をいつも心底求めていたのでした。
そんな風に始まった山山アートセンターにいちばん早く反応してくれたのは、似たような境遇に鬱憤のたまった人たちで、たしかにその中には子育て中の女性たちがたくさんいました。ウタコは中でもいちばん長くゆるく関わり続けてくれているうちのひとり。3人の子どもたちを連れてとにかくあちこち行脚したおしている紛れもない肝っ玉母さん。考えてみれば、ウタコの寛容さがあったから私は「ママ」を拒否する意固地さから解放されたようにも思えるから、じゃあ、一周回ってウタコは私の「ママ友」かもね!?
ウタコがいたからこそ今の山山アートセンターがある。
いろんな人間がただただごちゃっと共存していて、お互いの違いを肯定しあえる状態って実はすごく難しい。なにかといっては男だからとか女だからとか、はたまた日本人だとか外国人だとか障害者だとか高齢者だとか、はたまた地震で自宅が全壊か半壊か、水害で水が床上までついたか床下までついたか・・・と果てしないカテゴリー分けをしてしまう。これは日本列島に暮らす人たちのかなり大きめの弱点だと思う。カテゴリー分けしてしまうあまり、助かるはずの場面で助からない。カテゴリー分けがセイフティネットを壊してしまう。
ひとがひとと友達になるのって、境遇が同じときではなくて、置かれた境遇の中で求めてるものが重なったときなんじゃないかなって今思ってる。ママ同士だから友達になるんじゃなくて、男だろうが女だろうが何歳だろうがどこ出身だろうが、求めるものが重なる瞬間瞬間に手を繋いだり離したりしながら一緒に生きたい。私の理想は、カテゴリー分けをあきらめてしまうくらい、呆れるほどにてんでバラバラの人間たちがただただ勝手にいるという状態。
そのほうがたぶんお互いにとって生き延びやすいと思うわけです。
生きよう!