※このコラムは冊子「山山アートセンターをつくる2019 Yama Yama Art Center in Progress」のために2020年3月に書き下ろされたものです。(冊子PDF版はこちら)
Q. 山山アートセンターとの出会いを教えてください。
数年前、どこで知ったのか「福知山に、山山アートセンターというところがあるらしい」というのを記憶していました。大阪から鳥取だったかに車で旅行しようと走っていたら、福知山という文字を看板に見つけて思わず、あ、ここになんかあったよなと、なんやっけと記憶を辿り、思い出してウェブで検索してみるもはっきりとした住所が出てこず、おずおず諦めました。そもそも、福知山という単語を記憶できていたのは、新卒時に勤めた会社で担当していた営業エリアのひとつだったから。工業地域しか訪れたことはなかった。「辿りつけなかった山山アートセンター」・・・と、ここでうっすら意図を汲み取りました。ない、けどある。ないとは言い切れないし、実際ありそうだ(から検索した)し。また、出会うチャンスはあるでしょう、と。 そして2年前、それまでも顔見知り程度ではあったイシワタマリさん(こと山山アートセンター)に再会した際、ぼくが「福祉施設を自分でつくってやってみたい」旨を伝えたら、思いのほかイシワタさんも同じことを考えてることがわかって、今に至ります。
Q.タカカーンさんが思い描く「福祉施設」って?
ぼくは、イベント企画などの表現活動と、障害福祉分野における創作支援の仕事をほぼ同じ時期に始めたのですが、「二足のわらじ」ではなくそれらを統合できないかと考えるようになりました。「芸術」を出発点にするとみんなどうしても「おもしろいことをしなきゃ」と苦しむ。でもその前に、まずはそこにいる人同士が肯定しあう場が大切で、実はその安心感が創作にもつながると考えてます。 「すごす」ってことがテーマ。目の前の人との「すごす」を重ねていくうちに、そこに見合った福祉制度を組み合わせていけるんじゃないかと思ってて・・・コンセプトは「だんだん福祉施設になる(かもしれない)センター」。ただ、これって構想を話し出すとどんどんと彼方に思考が飛んで行ってしまうし、実際にやってみるほうが伝わるような気がしています。僕の出発点は「障害福祉」だったから「高齢者福祉」の経験はまだないけど、それとは別に滋賀県の限界集落で「古屋の六斎念仏踊り」復活継承事業にかかわった経験の影響を受けていて、都市部でなく高齢化した限界集落だからこそできるようなことについても考えてます。
Q.以前、「山山アートセンターはイシワタさん自身がケアされる場所であるべき」と言ってくれたことがありました。それについて、もう少し教えてもらえますか?
中心にいる人が強くないほうがいい、ということだと思います。 「福知山を愛してから行く」のでは一向に行けないけれど、イシワタさんに惹かれて行くっていうことはある。そして、イシワタさんに惹かれてしまうのは、悩みに共鳴するからだと思う。うまくばっかりいっているところって敬遠してしまうというか。知らない土地との接続役って大事だけれど、イシワタさんがいるから「いっしょにやれそうな余白が残っている土地」という印象を与える。悩みが明確じゃないのも母性が発動する。 あったりまえだけれど、それぞれの「このあたり」はみな違うということを、山山アートセンターの存在によって気づかされました。「あのあたり」でも「そのあたり」でもない「このあたり」同士で共存する術を模索しています。ぼくとイシワタさんは、似てるしわかり合っているようでいて絶妙に噛み合わないんだけど、それは近くて遠いこの距離のせいなのか、どうなのか。ぼくにとって福知山は別段思い入れのある土地ではないんです。それでも、遠いからこそ共にいられる、ということを今模索しています。