【この記事は2021年5月22日におこなった説明会の文字起こしをもとに加筆修正しました。】
ここは「山山よもやま相談室」という名の場所(オンライン)です。「相談室」という看板を掲げてはいるものの「相談する側/される側が分かれていない」「テーマを設けず、具体的な解決を目指さない」「喋っても喋らなくてもいい」「喋ったことをどのくらい秘密にしたいかしたくないか、喋った本人が振り返って決める」というのが特徴です。
日替わりの「管理人」+予約のあった1〜5名で時間をすごします。
予約フォームから事前にお申し込みください。
zoomアクセス先のURLをお知らせします。
笠間弥路(以下、ミロ)
順番に自己紹介します。「管理人」のミロです。美術家です。子どもの造形教室や美術の学校で働いたり、一緒に作ったりしています。「誰でもできる」をコンセプトに色々な人と作ることをしています。
美術と生活を軸にしながら生きてきているというところで一緒に話ができたらいいなと思っています。相談室を開くのは平日昼間が多いです。
犬飼沙絵(以下、犬飼)
「管理人」の犬飼です。美術家です。高校生くらいから美術にのめりこんでやっています。説明会なので白いブラウスを着てきました。珍しく髪も梳かしたんです。
作品か作品でないか、作家か鑑賞者なのか、生活か表現か、などの曖昧な境界線の中で、美術活動を17年ほどしています。活動の最終目的は秘密にしています。
現在、3児の子育ての中、家族5人で「よしおかさんち」という表現ユニットを組み「千のおうち」というプロジェクトを進行中です。相談室を開くのは平日昼間が多いです。
古川絵美(以下、古川)
「管理人」の古川です。普段は病院で作業療法士として働いております。病院で働いてる期間が長いので、今回、すごいところに飛び込んでるなという感じです。
普段かかわる人が医療従事者ばかりという中で、視野も狭くなっていたりもして、「こんな見方があるんだ」とか、対話していておもしろい部分がたくさんあります。いろんな方とお出会いできる場になればよいかなと思ってます。
相談室を開くのは夜もしくは土日が多いです。
イシワタマリ(以下、イシワタ)
言い出しっぺのイシワタです。美術家で、相談室を主催する「山山アートセンター」を立ち上げた人です。
結婚後、アートがほぼ誰からも必要とされていない地域社会の中で子育て生活をすることになったのをきっかけに、「さまざまな人が力を持ち寄ってとにかく生きようとするプロジェクト、山山アートセンター」をつくりました。管理人の皆さんと一緒に相談室のしくみづくりを考えています。当日もちょくちょく顔を出しています。
イシワタ
最初は、何の専門家でもない私たちをいったん「相談員」って呼んでいたのですが、途中から何か違うという話になって「管理人」になりました。
ミロ
「相談員」だとその人たちが何かしら研修を受けたり共通認識を持たねばみたいなのがあるんだけど、そこをすり合わせるのは何か違うっていう感じをぬぐえなくて。じゃあもうバリエーションを残すためにどうしたらいいんだろうって話して。
イシワタ
導き出されたのが「管理人」でした。「山山よもやま相談室」というのは(オンライン上の)場所の名前で、管理人はその日に場所の管理をしているにすぎなくて、相談を受けるという突出した技能を持ってる人ではない、と。結果として、それぞれの管理人の解釈でその日の相談室をやっていこうとしているので、回によって違うことも色々出てくると思うんです。それでどうなっていくのかは、やっていく中で見えていくかと。
もともと「山山アートセンター」という架空の場所について5年くらい考えている中でのコロナの影響で始まったのがこの相談室で、「山山アートセンター」自体の核心もついてます。「いろんな人がいる」っていうこと。この相談室が突然「たくさんの人を救う」のではなく、じわじわとやっていく中で、関わるひとりひとりが各々の向き合いたいものに向き合うきっかけになるならいいなと。
犬飼
「山山よもやま相談室」って、最初ぼーーーっと雑草がざーーーっと生えているところにイシワタさんが、鎌も持たずにただガッッッとやって来て「ここで相談室をやります」て言って、雑草を踏んで、そこに人を集めて、雑草を踏んで。雑草もまた生えようとするんだけど、そこを何回も堂々巡り、かごめかごめをみんなで踊って。鎌でガッと刈っちゃえば早いのに、何回も踏み固めてやっとそこが場っぽくなった。っていうイメージがずっと頭の中をぐるぐるしています。そこに小屋が建つのかどうかは分からないけど、小屋が建っても例えばカウンターの内側に「相談員」がいるんじゃなくて、参加する人と一緒にそこの鍵をあけて入っていく「管理人」がいる。「いらっしゃい」って待ってるわけではなく、「コーヒーいれるんやったら一緒にいれよう」っていう、そういう立場の人。イメージばっか出てきちゃうんですけど(笑)。
前に進んでいくというよりも、おんなじところを歩いて、それで見えていた光景が違って見えるのが、よもやま相談室のいい特徴かなって思いました。
イシワタ
「何に悩んでるかわからないけど地道に積み重なっていくストレス」みたいなのがコロナの1年でした。この相談室が何なのか分からないし雑草もボーボーなんだけど、「相談室がある」ってことに意味とか希望を持てるっていうのはあるかも。管理人さんたちや各回の予約をしてくれた方たちと一緒に末永くかごめかごめをしていきたいって感じですかね。
イシワタ
「ルール」は、あえて明確なものを設けていません。それについてはQ6-9でじっくり説明していきます。「方針」は以下のものを書いてます。
◆方針(2021年7月更新):
1.ここは「相談する/される」の役割を分けずに相談を持ち寄り、個々の経験や知識、想像力をもって他者を歓迎しあう場所。
2. ここでの「相談」とは、心のモヤモヤをひとりで抱え込まないようにすること。テーマを設けず、必ずしも具体的な解決を目指さない。
3.参加する人は、日々の暮らしの中に風穴を求め、互いの話に耳を傾けながら風を送りあう人。
4.言葉にするのは今でもよいし、いつかそのうちでもよい。
5.喋った言葉をどれくらい秘密にしたいかしたくないか、喋った本人が振り返って決める。
ミロ
対話、対話と最近多いですが、対話する場って発言しなくてもいいですよって言いながら結局ひとり1回喋らされる感じがあります。また、チャット機能を使い続けていると反射的に答えてしまい、後から「それは違ったかもしれない」と思ったりするんです。もう少し俯瞰してみて、自分の中に落とし込む時間が必要だよなと。こういう場をつくるときにすぐに言葉にするとか、対話っていうから喋らなければいけないみたいな枠をどうすれば外せるんだろうと思っています。「喋らない=考えてない」みたいに受け取られることが多いのがずっと引っかかっていて、1回もっとちゃんと「考える」ということをしてもいいような気がして。
イシワタ
この1年でオンラインで話す習慣がぐっと増えた方も多いと思うけれど、「言葉にしなきゃいけない感じ」の自由度を上げたかったのはありますよね。「喋らないでも聞いてていい」という前提があったらわりと安心ですよね。ZOOMで急に話を振られるとけっこう慌ててしまうことってあるじゃないですか。雰囲気的には家でテレビやYouTube観てるのと同じ感じでいたのに、急に話を振られて「うわあっ!」って。
ミロ
「うわあっ!」ってなるし、そもそもが虚構のような場所であり、画面と生活の間に距離がある。それなのにそこで発言することって、自分の暮らしとどれだけリンクできてるんだろう、と。概念的な言葉や他者の発した言葉を、いったん受け取って自分の暮らしの中で反芻すること、再考することが大事なのではないかと思います。
イシワタ
この相談室自体、かろうじて「こういう場所です」って言語化できるようになるのに1年以上かかってるんです。昨年秋頃に「グランドルールを決めませんか」ってなったのですが、あれ?・・・・と、答えが出ないまま月日が流れてしまって。
ミロ
グランドルールを作るのってそんなにいろいろ考えなきゃいけないんだなーってのは感じました。全然進まなかったぶん、「今までこんなに全部切り捨てて進んできたんだな」っていうのはすごく感じました。
イシワタ
医療分野では「相談室=こういうもの」というのが実際にあるんですよね?
古川
医療分野では相談する側される側は明確ですし、何を相談するかも明確です。例えば病院の中でいうと、退院に向けての相談、がんの相談、認知症の相談など様々な分野があって、その分野の専門の方が「相談員」として相談に乗ります。
イシワタ
実は、相談室を始めた当初は「相談室で話されたことや起こったことは “その場限り” として、原則として記録や公開はされない」と明示していました。でもいろいろ話し合っていくうちに、ルールで事前に決めるのでなく個別の場に委ねようということになりました。各回の最後に「今日こんな話だったけど、何をどの程度どこまで秘密にしたい?したくない?」とみんなで振り返りながら確認する時間を持ちます。
実生活では、個人情報とか守秘義務を守るべしという風潮がすごく強いんです。たとえば昨年普及した音声SNSのClubhouseなどは「話したことの記録の禁止」、「オフレコと明示された情報を他言することの禁止」がルールとして掲げられているそうなのですが、この相談室では明確なルールをあえて設けず、開くでも閉じるでもないさじ加減をよりていねいにに扱ったほうがいいんじゃないかという話になったんです。
犬飼
こういう場で話し合ったことがお互いのインスピレーションになって次の何かにつながるってことがある。だから「すべて使ってはいけません」って事前に決めすぎちゃうのも違うのかなって思って。ここに限らず、すべての日常生活で自分がいつインプットしていつ自分のものに作り変えてアウトプットしてるか、って無意識だと思うんですよ。ここで話したことをすっかり忘れて自分の中に浸透した何かをアウトプットしたとして、その場にいた誰かが「もしかしたらあそこで話したことだったのかも」って気づいたり気づかなかったり、そこのボーダーラインって曖昧だなと思ってて。
ミロ
リレーショナルにつながっていく可能性が未然に閉ざされる感じはちょっと息苦しいなっていうのはあります。あとは、せっかく話をしているのに壁の外には絶対にいかないって思ってしまうのはすごくもったいないなと。せっかくちょっとずつでも言葉にしたものは、いつかどこかでもう少し広がっていくものであってほしいという希望もある。
イシワタ
これは「福祉・医療」と「アート」の視点の大きな違いの1つだと思っています。アーティストたちのふるまいはともすれば「人の人生に土足で踏み込む」って受け取られてしまう。でも、アーティストたちの意図は一人ひとりの体験や物語を消費することでなく、大切に取り扱うことで外に開いていくことの可能性を信じている。福祉や医療の現場で扱う場合のそれらは個人情報であって、職務上知り得たとしても公にしないしできない。この相談室は、そのどっちともつかない場所でありたいというのがあって、だから日替わり管理人にミロさんや犬飼さん(美術家)もいるけど古川さん(作業療法士)もいて、というようなところかな。相談室の主催が「山山アートセンター」である以上、全体の傾向としては、話したことが何らかの形で社会につながって花開かれていくことを願うという前提はあると思います。ただしそれは「ここで喋ると個人情報が洩れちゃう」という意味ではないんです。
例えば「今こんなことに怒ってる」という具体的なことを喋った場合に、本人が「これはこの場限りで閉じておきたい」と選択することはあってもいいし、それが生きる活力になることがあるかもしれない。でも、「ルールだから閉じておこうね」ってあらかじめ決めてしまうとしたらちょっと虚しさがあるじゃないですか。穴を掘って「王様の耳はロバの耳」って言って埋めるみたいに、「ここでは怒ってもいいけど、外ではこの怒りは表さないようにしようね」みたいなのってその場しのぎで。だから、まずは言いたいことを好きなだけ言ってから、「この場限りにしたい」とか「失言でした、5分前のあの発言は消したい」って自己申告してほしいです。現実には、言葉を訂正するための時間ってなかなかないですから。
ミロ
あとは、回ごとに「絶対に外に出さないことを話す日」とか逆に「全部文字起こしする日」なんかの設定を告知時点でつくってみたら何が変わるのか気になったりもしてます。
犬飼
そのフレームが面白いですよね、そこに自分が何をもっていこうと思うのかっていう、それを考えるプロセスがなんかいい。
イシワタ
やってみないとわからないことばっかりなので。いろいろ実験しながら。
ミロ
「秘密にする必要がない」と本人が判断したとして、話したことが外に出た場合に何らかの反応があったり、誤解されて想定と違う受け取りかたをされることは起こるかもしれません。
犬飼
お互いに、ですよね、管理人の私たちの発言もきっとこちらの思いと違うふうに反応されるだろうし。「お互いの捉えかたで表現されてしまう」というのは前提としてあって、どうしてもやめてほしいとか変えてほしいっていう事柄が起きたらまたそれを相談してもらってもいいのかなと思う。
イシワタ
ふだん医療現場にいる古川さんはどう思いますか?
古川
医療現場では個人情報保護の観点から個人が特定されないように配慮しなければいけません。今回の場合は、どこまでどれくらいのことを外に出すか、来られた方と最後にきちんと確認するのが大事かなと思います。
イシワタ
これは、話されたことや話した人間を大事にするエクササイズだと思うんです。
自分が内に秘めたものを出す立場だったとして、「あの人あの時あんなこと言ってたよ」って、悪口風に伝わったら怖いですよね。逆に、たまたま参加して別段親しくない人が心情を吐露するのを聞いた立場だったとしたら、「ルールだから」で思考停止するんじゃなくて、思いやりの持ちかたについて想像力を働かしたほうがいいんじゃないかと思ってて。毎日の中で、思考停止しないと前に進めないこととかって多分みんなあるけど、相手を思いやるエクササイズをしないと人を傷つけちゃう。それぞれみんな、スキルをあげていったほうがいいって思います。私自身コミュニケーションが下手だし、きっとみんなそれぞれに不器用さを持ってるはず、でも、不器用だったり誤解したりされたり間違えたり衝突しちゃったり・・・を、ルールで避けるんじゃなくて、失敗する可能性も含めて、思いやりを持ち合うための練習かなと。リスクを避けすぎると、人間じゃなくなっちゃうように思います。
犬飼
「世間」って自分自身で作り出してるよなって思うんですね最近。それぞれが個人個人で「世間」というのを持っていて、それと戦ってたりして、でも作っているのは自分自身。だから、いかに自分がそれに対して強くなるか、というか反応しすぎないようになるか、というか。理想で言えば、「どう受け取られたって大丈夫だよ」って自分自身で暗示をかけたい。いつまでたっても、伝えたかったことと伝わったことが完全にイコールになったかどうかの確認なんてできないと思うんですね。それをいつまでも気にしていたら疲れちゃうから、それはそこにあるだけとしてただ見つめる感じのとらえ方ができたらいいな。と、理想では思うけれど、反応はしちゃうよね。
イシワタ
それも大事なエクササイズですよね。私も若い頃は今よりもっと神経質に、誤解されたことに目くじらを立てたりしていたけれど、今よりもっと大らかになりたいと思うし、自分というものへのいい意味でこだわらなさを練習したいと思います。
犬飼
自分の体質を変えるのはなかなか難しいと思うけど、自分を一歩引いて見る、受容するっていうのができたらいいと思ってます。
イシワタ
人それぞれ自分の練習したいことを練習できる場になりそう。
ミロ
ルールって正しさを抽出するものというか。正義が行き過ぎていくのが最近しんどいなって思うことがあって、こと相談室とか対話みたいなことだとそれを感じます。ルールって初めからあったんじゃなくて、そうなるまでのプロセスがあったはずなのに、「ルール=守るもの」っていう前提で集まるのはちょっと恐ろしい。今あるものがこうなるには理由があったはず何だってことを探したいな。ルールって、ものすごく幅広くアクセスできるところに落とし込まれてるものなんじゃないかと思うんです。だから、「自分ならどんな基準を持っているだろう」「どれくらいの振れ幅でずれを許容できるだろう」と考えてます。ずれてみないとそもそも何がずれたのかも分からないから、あえてずらしてみることで、ずれを修正する基準を探りたい。
イシワタ
人それぞれ感がとてもありますよね。ルールを制定しないことで、多分それぞれ別のことを考えてたり、別のテーマでここにいたり、それこそ誤解しまくったり、エラーが出まくったり、する気はするんです。でも、「そういうずれ方したんだな」とか「そういうものの見方か〜」みたいなのがただそこにあるなら、噛み合わないけどしっくりくるみたいな感じになるのかな。
古川
医療はルールがあることが前提なので、そのルールに疑問を持つことすらなくなってきてます。それと、医療に限らずあらゆる現場に通じることですが、考えない人を作り上げるシステムができてしまっている部分がある気がします。考えない人のほうがスッと仕事できると思うんですよ。言われたことを言われたまま、さらーっとやれる人が必要とされるんだなと感じてしまうことがあります。私は色々言っちゃいたくなるタイプなんで、そのストレスがすごい溜まってます。「これ言ったらこう言われるだろうな」って、言いたいことを言わなくなりました。
イシワタ
日常の場面ではどうしても、言いたくても言えないことってあるにはあると思うんです。だからといって、考えることを続けちゃいけないはずはない。考えてるのに、思ってるのに、感じてるのに言えずにいることを、言える場所にもなるといいですね。
(質問者:参加する日は何を持っていけばいいですか?何も持たずにふらりと?)
イシワタ
相談することなんかなくても手ぶらで来てほしいです!!!「相談室」って聞いたらほとんどの人が「私の行く場所じゃないな」って思うはずなんです。でも、この場所は「相談室」っていう看板がかかってるだけなので、ただたまたま暇なだけでも、喋らず聞いてるだけでも来てほしい。
ミロ
相談のハードルが高すぎるって話をずっとしています。「何を相談すればいいのかがわからないときにどこで誰に何を話したらいいの?」というところからどうにかほぐしたいというのは最初にあります。
イシワタ
人に相談することってすごく大事だけど、その大事って言ってる相談って何なんだろうってずっと考えてて。そもそも言葉にできてないから専門家の相談窓口に持っていくことはできないけど、この看板がかかっている部屋に行って、「モヤモヤしてるんですよね」ってそこにいた誰かにしゃべる、みたいな機能をつくれるかもなって。その部屋がどういう部屋だったらいいかとを話していくこと自体が自分たち自身の救いになったり、そこにいろんな人がいればもっとお互いにとっての救いになっていくかもって。
犬飼
こないだ、住んでいる市の教育委員会に電話したんです。要求やクレームではなく「このモヤモヤを教育委員会の人につぶやいてみようかな」と思えて。「コロナの対応で小学校の先生も子どももどうしていいかわからない状況が不安で、別にどうしてほしいってことはないけど私は今こういう意見がある気がしてます」みたいなすごくふわーっとした感じで言ったら、相手のおじさんもふわーっとした感じで一緒に喋れて。すっごくすっきりしたんです。これ、よもやま相談室を重ねていろいろ喋ってきたおかげかなと。相手に自分のモヤモヤを発した時点で相談になりうるんだというか。
イシワタ
それはすごいね。教育委員会だって教師だってお医者さんだって、ほんとはどうしたらいいかわかんないもんね。どうしたらいいかわからない中でも何らかきちんとしなきゃいけないお仕事の人たちの立場からしてみても、もしかしたら、そういう素朴な声が聞こえると違うかもしれない。
ミロ
すっきり整理整頓されてないと相手に伝えてはいけないというのが先入観としてあるんだけど、そうすると本当に自分の中にたまってる言葉って出にくかったりします。言語になるまでにタイムラグがあるから、言語になる前のものを共有して一緒に言葉を作っていくのは今すごく大事なんじゃないかと思います。一緒にふわふわ、がさがさがさがさ一緒にゆするのって要るんじゃないかな。それがないとがさがさする仕方も忘れちゃってただただ苦しい、みたいになっちゃう。
イシワタ
ただただ苦しいってつらいですよね。きちんとした言葉になるまで言わないでおこうとするとその日は永遠に訪れず、ただただ内側に溜まっていきますよね。そうなっている人をたくさん見かけるし、今なんてマスクしているからその顔さえもよく見えない・・・みたいな、救いのない感じが結構ありますよね。
(質問者:伝わってるんです、わかるんですけど、実際どうあるのかなって。喋んないでほんとにいられるんかなっていう・・・いられるんやと思うんですけど・・・。)
イシワタ
「耳だけ参加」もウェルカムです!場として「喋っても喋らなくてもウェルカム」って感じをどう伝えればいいのか、ってのはありますよね。喋ろうとしてない人に無理には振らないとすると、ウェルカムなのかどうなのか伝わりにくいかもしれないというジレンマはありますよね。喋りたくない気分の人がオッケーな気持ちでいることができさえすればいいんだけど。現実問題、管理人1人参加者1人で、参加者が喋らなかった場合どうなるのかはまだわからないです。
ミロ
本とか読もうかなって思ってました。
古川
以前参加したオンラインのグループディスカッションで、「参加したくない人は名前の横に(耳)とか(耳だけ)とか書いてもらったらいいです」というのがあって、参加しやすいなあと思った経験があります。それがあると「今はそんな感じなんだな」と管理人にも分かっていいかもしれないです。
イシワタ
なるほど。確かにこのネームプレート(?)だけでも意思表示ができますね。
犬飼
私、子どもと公園で遊んでるときにClubhouseの部屋をたまにひとりで立ち上げるんです。ずっと子供とわーーーーーーーーとかやってるんだけど、ずっと携帯はClubhouseに繋がったままで。私の部屋には私しかいないんですけど、それを繋いでるのと繋いでないのでは子どもへの接し方が違うなって自分で思っていて。常に誰でも入って来られる部屋の中で遊んでいるというか。相談室の時間いっぱい無言が続いたとしてもある意味何かではあるのかなっていう風に思うんですけど。
イシワタ
それはあるね。ここは「山山よもやま相談室、という名の場所」なんですよね、ただ。「名の場所」なので、その場所は予約が1人しかいなかったからやりませんってことではなく、やると言った日はドアが開いてるってことだけなのかと思いますね。そこで何らか過ごすんでしょうね。
犬飼
リアルの場所だったら、来てなんにも喋らないけどお茶でも飲んで、時間なのでじゃあ閉めますねって言って帰る、それだけでも、その人の中で何かしらもぞっと動くものはある。それをオンラインでやってみようとしているんじゃないかなっていう。
イシワタ
それがありだと思うとすごくいいですね。別に議論の場ではないので、その日集まる人がどんな人でどんなテンションの日でたまたま何人かによってどういう場になるかって全然わからない。ただ「相談室」って看板はずっと出てる。喋りたくない気分でも大丈夫、「私はただお茶を飲む」って決めてても大丈夫だし、議論には加わらず本を読むって決めててもいいかもしれないですし、自分それぞれの生活の中で、相談室に行こうと思った日には来てもらえたら嬉しい。
ミロ
私は友人のアーティストとオンラインで、窓越しに、窓だけ映してたまに喋るとか、してます。オンラインの画面がちっちゃい窓に感じるのと、あと、あっちとこっちの窓から見える景色が違うことでかろうじて距離を身体に落とし込めるみたいな感じがあるんですよね。電車に乗って移動したりする間に体が覚えてたような感覚を、どうやったらもう少し取り戻せるんだろう、って。この画面越しの出会いみたいなものの距離感、どうやったら身体で更新できるのかなって。でも、オンラインで繋ぎっぱなしで自分のことができるっていうのは、直接会うのだとやりにくいことだったりするから、いいところかもしれないですね。
イシワタ
実際の集まりだったら「私はお皿を洗っとくので」みたいなことにはなりにくいもんね。おもしろいね。
(質問者:アートはどのように理解したらいいですか?とりあえず置いておいても大丈夫ですか?)
イシワタ
この質問をくださった方が、「アートが何なのかわからないけれど、わからなくてもそのままにしていいっていう謎のおおらかさを感じた」と言ってくれたのですが、「謎のおおらかさ」っていうのはありがたい解釈だと思いました。「自分はいいと思っているが、それを自分の友達にどう説明すればいいのかわからない」っていう質問もよくいただきます。「自分はこう思った、自分の立場でこんなことを感じた」と、自分の言葉で言ってもらうのが一番いいんだろう、それしかないんだろうと思います。アーティストを自称する人、アートの業界で仕事する人たちも、結局それぞれ自分の言葉でしか言ってないと思うんです。ちなみに山山アートセンターでは「とにかく生きよう」と言っていて、アートはそのための手がかりだと解釈しています。この言葉も私の言葉にすぎなくて、偏りがあると思います。
犬飼
・・・今、悩みって漢字を書いてたら、心の横にバツの入った箱が落ちてて、バツがあるじゃんピッピピーみたいな、バツあったピッ!って気づくみたいな、そういう形の字だって気づきました。
イシワタ
笑。すごくいろんなイメージの見える人ね。
(質問者:いちいち怒ってたら疲れちゃうんですけど、怒らずにはいられない。誰かが言わないと変わらないんじゃないのと思って声を上げちゃったりすることも、それをすることで周りもざざっとしちゃう。折り合いをつけられない自分がすごいダメな人みたいな感じになっちゃって・・・)
ミロ
怒ってもいい、と思ったりしています。お母さんたちも怒ってよかったんですよね、昨年、学校がいきなり休校になったりとか。でも怒ったって子どもはごはん食べるし、遊びたい子どもたちがどうなるんだとか思ったりすると、まあしょうがないなとかって言って、「あれ?息吸えてなかった」みたいになっちゃうんですよね。怒ることも共有して、怒った自分を責めるところに終わらないですむ場所がほしいと思うからきっとこういう場所を作ったのではないかと思って1年過ごしています。
イシワタ
みんな怒ってるよね、怒ってるし泣いてると思います。でもそこに立ち止まっちゃうと進めないからむりやり押し込めてるけど、そりゃ怒るよね。怒るし悲しいよってことですよね。あと、「山山アートセンター」および「山山よもやま相談室」に関して言えば、「人間ってダメダメだし、私もダメダメだし、悩んでるけど、これでいいのだ」っていうのが前提にあると思います。
ミロ
ダメってのを下す方向があまりに一方向だとしんどいよね、本当にそれってダメですか?っていうのを考えてみてもいいかな。誰目線のダメなんだろうか、とか。
イシワタ
そうだね。みんなおつかれさま。「ダメだけどこれでいいのだ」って思える瞬間なんて日常の中では私も無いし、きっともっときちんとしたお仕事されてる人はさらに、人間本来のダメさと現実とのギャップによるプレッシャーみたいなもの、あると思うんです。
ミロ
医療の現場の方ははざまに立つ回数や頻度が私なんかより毎日多いはずで、尊敬しかないです。どうやって越えて生きてるのか知りたいくらいです。
イシワタ
ほんとですよ、古川さんどうやって生きてるんですか?どうしてるんですか?
古川
最近はエンターテイメントで生きています。映画とか、あんまり見ない人だったんけどそっちばっかりいきたくなる。ニュースとか見るのもしんどくなってきて、ドラマと映画を楽しみに生きています。そういう世界があってよかったなって。
イシワタ
相談室に参加している間は何も喋らなかったけど、何か言葉を伝えたくなった、なんてことがあれば、「言葉にしたくなった人のフォーム」からいつでもご連絡ください!
【文字起こし:水田ウタコ/編集:イシワタマリ/ビジュアルデザイン:うかぶLLC】